角牟礼城跡

更新日:2023年05月17日

お願い

1、石垣工事をしています。

 工事車両のために仮設道を設置しています。工事関係以外の車両の乗入れはできませんが、一部遊歩道を兼ねています。滑りやすくなっていますのでご注意ください。

 

2、自然と歴史を大切にしましょう。

 角埋山は、史跡角埋山城跡・名勝耶馬渓角埋山の景だけではなく、耶馬日田英彦山国定公園・鳥獣保護区・特別鳥獣保護区・保健保安林の指定範囲です。

 ごみの投げ捨てや焚火などはしないでください。

角牟礼城跡と周辺の地形図を公開しています

 角牟礼城跡の麓にある豊後森藩資料館(入館料100円、わらべの館内)で、城跡と周辺地形を3Dレーザー計測した図面と映像(株式会社コイシ提供:大分市)を公開しています。

 御登城前に詳細な地形図で曲輪等の配置をご確認されてはいかがでしょうか。

御城印はじめました

 角牟礼城跡と伐株山城跡(別名玖珠城、高勝寺城等)の御城印をはじめました。町内2か所で販売しています。

続日本100名城のスタンプについて

町内2か所(豊後森藩資料館、メルサンホール)に設置しています。

概要

 大分県の西部に位置する玖珠町は、中心部の玖珠盆地(標高330m)とそれを取り囲むメサ(卓状台地)が特徴で、角牟礼城や伐株山城はこの地形を巧みに利用しています。

 玖珠盆地北端にある角埋山(盆地との比高差約230m)は、浸食が進んだビュートと呼ばれる地形で、南を除く三方を切り立った崖に囲まれています。この山頂にある角牟礼城跡は、中世的要素と近世的要素を同時に見ることができる山城で、「土づくりの城から石垣を主体とした城への変遷を知るうえで重要」として、平成17年に国の史跡となりました。

歴史

 戦国期の玖珠郡は、大友氏のもと玖珠郡衆と呼ばれる在地領主が治めました。角牟礼城は玖珠郡衆のひとりである森氏の居城とされ、戦国期に大友氏の指導のもと城に改修が加えられます。大友氏除国後の文禄3年(1594)に毛利高政が入国し、近世城郭への改修が図られました。慶長6年(1601)に伊予の村上海賊三家(能島、来島、因島に本拠をおいた三家)の中で唯一大名となった来島氏(2代で久留島に改名)が入国し、角埋南麓に陣屋を築きました。来島氏は角埋山を御留山として藩の管理下に置き、城としては使用しませんでした。

縄張り

石垣が積まれている上に樹木が生えている二の丸南虎口の写真

写真は二の丸南虎口石垣

 中世山城の様子がよく残る山頂は、主郭とその周辺に切岸と帯曲輪を配置しています。また、三方を数m~30mの断崖に囲まれているため、主に南側斜面に切岸や曲輪をつくり守りを固めています。戦国期の改修では、二の丸西曲輪部分や南側斜面の畝状竪堀群等が整備され、現在の城域に拡大されたと考えられています。

 毛利高政は石垣を使った近世城郭へと改修しましたが、その改修は部分的でした。毛利氏がつくった石垣(本丸北側・二の丸・三の丸)はいずれも角埋山の断崖の切れ目に配置されており、断崖を天然の石垣とみなせば、城全体を石垣で囲まれた総石垣の考え方でつくられたと思われます。二の丸の南側と西側には外桝形の虎口がつくられ、それぞれの虎口から同規模の櫓門跡が見つかっています。特に南虎口石垣は最大高7m、全長約100mと城内最大で、ここが城の大手と考えられています。この石垣は実際の防御効果だけでなく南麓にある城下町からの見栄え効果もあったと思われます。また、二の丸南西にコの字状に張り出す三の丸は全体を石垣で囲み、斜面には二の丸に向かって登り石垣がありました。

配置が左右対称となっている西門跡の礎石の写真

写真は西門跡の礎石

もう一つの城

 森藩は小藩ゆえ城をもっていませんでしたが、歴代藩主は城持ちへの夢があったといわれています。8代藩主通嘉(みちひろ)は、陣屋西側の丘陵にある神社再興工事で、神社とは思えないような三重四重の石垣を巡らせました。この工事は、城持ちという長年の夢を叶えるためのものだったと伝わっています。

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社会教育課 社会教育班

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大分県玖珠郡玖珠町大字岩室24番地の1

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