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角牟礼城跡 【 国 ・ 史跡 】

※注 意

 熊本地震の影響で城内の石垣に崩落やゆるみがあります。

 石垣等危険な場所には

 近づかないようにして下さい。

 

 

 石垣の修復工事中です。

 

・二の丸西曲輪石垣解体修復工事の工事車両ために仮設道の設置を行いました。工事関係車両以外の乗入れはできませんが、見学者(徒歩のみ)の利用はできます。城内は危険個所があるため見学をされる際は十分ご注意ください。

 

 

現状

 角牟礼城跡は、大分県の西部に位置する玖珠盆地の北側にあり、標高577mの角埋山の頂上部に築かれている。東側には、宇佐市や中津市に通じる主要道路である国道387号線が走り、玖珠郡から豊前へ抜ける交通の要衝地に位置する。盆地との比高差は240mである。
三方を急峻な斜面で囲まれた角埋山は、天然の要塞と呼ぶにふさわしく切り立った険しい岩盤が露出し、古くから石垣のある山城として知られている。
地元の人々にとっては、散歩の場として親しまれる一方、天正年間の豊薩戦争では地元の武将が籠城して守備したことから、難攻不落の城として玖珠町のシンボル的な存在となっている。
 現状は、町有地・共有地・私有地すべて山林で、その中でも、町有地については、「角埋山の景」として名勝耶馬渓に含まれている。鳥獣保護区でもあるため、自然木がよく残り、ムクノキやブナ科の巨木がある。自然林に覆われた山は、野鳥にとっても絶好の住家でもある。
また、これまでに開発行為などほとんどなく、地元有志「つのむれ会」によって草刈りなどの維持・管理されている。

現在までの調査、保存の経緯

 地元では石垣のある城として知られていたが、注目されるようになったのは、平成4年に二の丸南虎口の穴太積み石垣の存在が確認されてからである。

搦手門地区石垣 写真は二の丸南虎口石垣

 以後、角牟礼城跡は中世の山城としてだけでなく、織豊系の高石垣を持つ城として大分県の中でも最も重要な城として位置づけられ、玖珠町教育委員会は県教委と協議を重ね、平成5年度から3ヵ年計画で遺構の確認調査を始めた。
・本丸地区

 本丸跡からは北側石垣隅部より櫓跡を、南側の土塁が切れた場所から幅約4mの石段の虎口を検出した。曲輪内では隅櫓を除くと礎石建物はなく、検出された虎口や掘立柱建物の柱穴などは中世段階の遺構と思われる。
・二の丸地区

 西虎口では、間口約9m、奥行き約4.5mの門跡(西門跡)が発見された。礎石の配置が左右対称であることから、両側に間口9尺分の部屋部分をとった、中央が通路となる門であることがわかった。瓦が出土していることから瓦葺きだったことが考えられる。また、扉と思われる位置からは、かんぬき金具が出土した。
 二の丸西曲輪跡からは曲輪奥の最南部より3間×5間の礎石建物跡を検出した。南虎口では、西門跡と同規模の瓦を伴った門跡(大手門跡)を検出した。また、南虎口の石垣は角牟礼城跡の中で最大のもので、高さ約7m、長さ約100mもあり、東端は自然の岩壁に取りつくように造られている。
礎石建物跡 写真は西門跡の礎石

 平成9年度から12年度にかけては山麓周辺の遺構確認調査を行った。
 なお、遺構の保存については、調査後に遺構上部に真砂土を盛り、検出された礎石建物跡の礎石については、上部のみ露出するように埋め戻し、現状保存している。
    

角牟礼城跡の特徴と歴史的価値

 角牟礼城跡は、玖珠町森にある角埋山(標高577メートル)の山頂に築かれた山城である。玖珠郡衆と呼ばれる在地領主の一人森氏の詰城であったと考えられるが、玖珠と豊前を結ぶ交通の要衝に位置していたため、天文年間には大内氏の豊前侵入に伴い大友氏の指導のもと城の改修が行われる。その後、周辺の玖珠郡衆による共同管理の城(番城)となり、天正15年の豊薩戦では落城しなかった要害堅固な城である。大友氏除国後の文禄3年、秀吉により日田・玖珠に毛利高政が入国し、角牟礼城を玖珠の拠点としている。この時から佐伯に転封されるまでの間に毛利氏が角牟礼城を改修したと考えられている。毛利高政は角牟礼城の二の丸・三ノ丸地区を中心に高石垣と桝形虎口等をつくり近世城郭へと変貌させたが、本丸地区は大きな改修を受けていない。この改修が、この時期九州に入ってきた豊臣大名に見られる一部分を象徴的に改修するといった特徴的な城づくりなのか、城替えのため建設途中で廃城となったのかはっきりしていないが、これにより、角牟礼城跡は中世山城から近世城郭が成立していく過程を一目で見ることのできる貴重な城跡となった。

 

 近世後期に編纂された「豊後国志」によれば、久寿年間(1154〜56)に源為朝が築城し、弘安年間(1287〜88)には森三郎朝通が居城したとあるが明確な史料はない。また、天正年間の島津軍との戦いについては、「地域堅固、抜くあたわずして去る」とその城としての堅固さが書かれている。

 文献上初めて登場するのは、文明7年(1476)の志賀文書で「くすつのむれの城らっきょ(落居)」とある。天文2年(1533)には大友義鑑が森氏や平井氏に宛てた角牟礼城での城番の労をねぎらう書状がある。天文年間には大友義鑑から古後氏ら8名の玖珠郡衆に宛てた書状で角牟礼城に堀を作るよう改修を指示している。これは、大内軍の豊後侵攻に備えてのことと考えられる。天正14年(1583)の島津氏の豊後侵入の際、角牟礼城に籠城して守備した玖珠郡衆らに大友吉統から感状が贈られている。慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いに呼応した石垣原の戦いをはじめとする内戦が豊後国内でおこり、黒田氏により角牟礼城は開城された。

 慶長6年(1601)毛利氏が佐伯に転封になり、来島氏が入部するが、秋山家文書によれば「玄興院御打ち入り之初めハ、日出生村まつがねに暫く御座なされ候、之により日出社□に三嶋大明神を御勧請成され候由」とあり、しばらく日出生村のまつがねに本陣を置き、陣屋と城下町の建設に取りかかったと考えられる。田坂道閑覚書によると「豊後玖珠郡森ニ御在宅ヲ構タマイシナリ、角埋山ニ御城之地取トモ有リテ土塀計リ掛置キ給フ」とあり、来島氏は角牟礼城の補修(土塀計リ掛置)をしただけで、城には入らず陣屋を構えたと考えられる。しかし、秋山家文書の中には、寛永9年(1632)に肥後に転封となった細川忠利の父三齊が化粧料田の小田村を巡視した際の出来事が「…さてさて小身ニ似合ぬ能城地をもたれ候と御称美なされ候由申し伝え候、角牟礼之義古城と申すニては之無く、前丹州様御代までこれ有り候城地ニ御座候」とあり、2代藩主通春の時代まで角牟礼城が存在したと記されている。また、同文書によると通春の代に「御はき成され候」と記されていること、正保の絵図の写しといわれている豊後国玖珠郡久留島丹波守屋敷絵図に「角牟礼古城」とあることなどから、通春の代には廃城となったと考えられる。以後は久留島(2代の時に来島から改名)氏により御止め山として管理され、その歴史に幕を閉じる

 

将来にわたる保護の計画

平成21年度策定の「史跡角牟礼城跡保存整備基本構想」の基本方針では、「遺跡の保存活用」、「遺跡の歴史と文化を分かりやすく」、「自然環境の保全と体験学習の場」、として活用ができるように、この史跡を『歴史公園・生涯学習の場』とする構想を打ち出した。また、平成22年度には「玖珠町第5次総合計画【基本構想】」と【前期基本計画】が策定された。この前期基本計画の主要な施策の中では、角牟礼城跡を中心とした文化財を活かしたまちづくりを進めている。

玖珠町は、「史跡角牟礼城跡保存整備基本構想」を継承・発展させ、角牟礼城跡と周辺地域を有機的に結び付けるための具体案を策定し、角牟礼城跡だけでなく周辺地域も含めた広域を『歴史公園・生涯学習の場』とできるように、そして、より多くの来訪者を受け入れられるように地域と一体となった整備とまちづくりを目指す。

 

 

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玖珠町役場
〒879-4492
大分県玖珠郡玖珠町大字帆足268番地の5
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電話番号 0973-72-7151  FAX番号 0973-72-5663
更新日:2016/4/18

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